【大型犬と扇風機】
六月十二日(火) 【曇り】
全くもって梅雨という奴は鬱陶しい。
クーラーという新兵器も搭載していない上に風通しの悪い俺の部屋は、雨が降ると湿気と熱気の灼熱地獄と化す。
唯一の防衛手段である扇風機様も昨日、天寿を全うされた。
新しい扇風機を買わねばならない。
そんなことを考えつつコンビニ袋を下げて歩いていると、家と家の隙間で、転がっている大型犬を見つけた。
そいつは死んでいるのか気絶しているのか、微塵も動きはしなかった。
俺の横を通り過ぎてゆくサラリーマン、
向かいを歩いてくる先程眼の合ったOL、
無邪気に走っている子供、
それを穏やかに諌める母親、
虚ろな眼をした浮浪者、
友人との会話に勤しむ女子高生たち。
皆、この景色が見えているのかどうかは知らないが、誰も気に留める様子はなかった。
男「―――」
人の家の裏で死なれても困るので近付いて見てみると、そいつはなんとか生きていることが判明した。
暗くてよく見えなかったが、どうやら学生らしい。近くの高校の冬服を着ている。
服の裾をめくり上げて肌を見ると、身体はどうにか動ける程度に痛めつけられていて、顔には故意か偶然か、傷も殴打の跡も無かった。
座り込んで軽く頬をはたいてやると、気絶していたらしいそいつはうめき声を上げながら目を覚ます。
犬「ぅ……」
罅の入った眼鏡の向こうにある、草食動物のような瞳がゆっくりと開く。
犬「……?…わ、うわッ!だ、誰…ッ!」
男「そりゃこっちのセリフ。勝手に人ン家の近くで死なないでくれる?」
右手の親指で右側を指す。そこには窓があった。その窓に切り取られて見える部屋が、俺の部屋だ。
月三万の激安アパート。トイレ共同風呂なし。
何でも昔誰かが自殺したとかで、都心だと言うのに更にお手頃値段。
と、そんなことはどうでもいい。
男「こんなボロ家とは言え、この年になると世間体は気になるからね」
犬「あ、う…すいません。すぐに行きます…」
男「そ。誰かに見つかると面倒だからなるべく早くね。あとコレあげる」
犬「?」
コンビニ袋からペットボトルの緑茶を犬君に渡して、踵を返した。
男「残念賞」
犬「……」
男「じゃあね」
犬「……どうも」
犬君はぺこり、と頭を下げるとふらふらとした足取りで街中に消えた。
俺は鮭弁当を食って、湿気の中で眠った。
夜中に暑くて二度、目が醒めた。
六月十五日(金) 【曇りのち雨】
もうすぐにでも雨が降りそうな空模様の下、俺はコンビニ袋を下げて家路を早足で歩いていた。
今日は運良く三百八十円のハンバーグ弁当が買えた。
男「ん……?」
俺の部屋の裏道から、四人組の高校生が出てきた。
あそこは袋小路になっていて、普通の人は用がない筈である。
横を通り過ぎていった際に顔を見る、が、やはり見覚えはない。
そんなことを考えつつ歩いていると、家と家の隙間で転がっている大型犬を見つけた。
そいつは死んでいるのか気絶しているのか、微塵も動きはしなかった。
男「なんだ、また君か」
人の家の裏で死なれても困るので近付いて見てみると、そいつは何とか生きていることが判明した。
座り込んで声をかけると、意識はあったのか、ゆっくりとその小さな身を起こす。
犬「……あ、こんにちは…」
胡乱な瞳のまま、犬君は不器用に笑って見せた。
男「こんにちは。君もまた飽きないね」
犬「すいません…すぐ行きます……ごほッ…」
※犬君、咳き込む。
男「おいおい、血ィ吐いてるけど大丈夫?肺に肋骨とか刺さってない?」
犬「たぶん大丈夫…です…呼吸もできますし」
男「んん…そうだ、ヒマだったら俺の部屋寄って行く?今日は人通りも少ないし」
犬「いえ……帰ります。どうも、ご迷惑おかけしてすみませんでした…」
※しばし間。
男「お金かな?それともただのストレス解消かな?」
犬「……両方、です」
男「そう。がんばってね」
犬「…どうも」
男「あ、待って。コレあげる」
コンビニ袋から、ずしりと重い鉄の塊を取り出す。
それは布でぐるぐる巻きにされていて、外から見たら何なのかわからない。
犬君は布を少しほどくと、先っちょの部分を見て眼を見開いた。
どんな力のない者でも、女子供老人でも、指先さえ動けば少し人差し指に力を込めるだけで人を殺せる、世にも素敵なアイテムです。
男「残念賞」
犬「……ッ」(息を飲む声)
男「じゃあね」
気付くと、雨が降り始めていた。
犬君は鳩が豆鉄砲喰らったような顔のままで、雨の中立ち尽くしている。
俺はハンバーグ弁当を食ってビールを一本だけ飲むと、湿気の中で眠った。
目は覚めなかったけれど変な夢を見た。
六月二十日(水) 【雨】
俺は激しく雨の降りしきる中、三百円の傘をさし、コンビニ袋を下げながら歩いていた。
今日は久々に豪華な夕飯になる。八百円のヒレカツ弁当に、戴きものだがエビスビールを五本ももらった。
嬉しさに顔を緩ませつつ歩いていると、家と家の隙間で、転がっている大型犬を見つけた。
そいつは死んでいるのか気絶しているのか、微塵も動きはしなかった。
男「……」
人の家の裏で死なれても困るので近付いて見てみると、そいつは辛うじて生きていることが判明した。
びしょ濡れになった服の裾からは、痛々しい程に青くなった痣が覗いている。
近付いて座り込むと、犬君はもはや気付いていたのか、慣れた様子で身を起こした。
犬「……ども」
犬君は完全にオシャカになってしまった眼鏡を取ると、水溜りの中に捨てた。
男「使わなかったんだ」
犬「はい…必要、ありませんから。この間はつい受け取ってしまいましたが…返します」
そう言って、犬君はビニールに包まれたこの間の残念賞を返してくれる。
俺はそれを受け取ると、鍵の開けっ放しの窓を開け中に放り込んだ。
男「君はそういう殴られるのとかが好きな趣味?」
犬「いえ、嫌いです。至ってノーマルですよ」
男「じゃ、なんで?」
犬「使ったら…戻れないような気がしまして。それに、我慢すれば、済むことですから」
男「そうじゃなくて、なんで抵抗しないの?」
犬「……なんで、でしょうね…」
男「傷付くのが嫌なら、傷付ければいい。君に付けられた以上の傷を奴等に返してやれば、もう奴等に傷つけられることもない」
犬「でも…傷付けるのは、もっと、嫌いです」
男「…そっか」
犬「…それじゃあ、失礼します」
男「うん。じゃあね」
犬君はぺこりと頭を下げると、傘も差さずに雨の中を走っていった。
俺は踵を返すと、ヒレカツ弁当とエビスビールで豪華な夕食を満喫した。
蚊がうるさかった。
六月二十一日(木) 【雨】
寒かった。
六月二十二日(金) 【晴れ】
久しぶりに晴れると、今度は本格的に夏になってしまったらしく、暑くてやってられなかった。
汗は止め処なく出てくるし、うるさい蝉の声もしばらくの間は聞く羽目になるだろう。
コンビニ袋を下げてガリガリ君を齧りながら帰路につくと、途中で犬君が道の真ん中にいた。
俺の姿を確認すると、こっちにやって来る。
男「お、珍しい。今日は無傷なんだ?」
犬「あれは、貴方の仕業ですか?」
男「ん?あれって?」
犬「惚けないで下さい。あの四人を…彼等をあんな……!犯人は貴方でしょう!?」
隣のショーウィンドウでニュースがやっている。
この近くの高校の高校生四人組が、先日、殺害されました。
犯人はまだ見付かっておらず、動機・原因ともに不明で、警察は、高校生同士の喧嘩が行き過ぎた結果、と見て捜査を進めています。
この四人組は普段から素行が悪く、学校側の見解としては――――
俺は微笑みを返すと、溶けかかっているアイスをかじる。
犬「助けてくれた事には…お礼を言います。でも、貴方を許すことは、出来ません」
男「俺が勝手にやった事だよ。礼を言われたくもないし、許されるつもりもない」
※犬君、涙声で
犬「あんな…あんな酷い…他に方法もあった筈です…なのに……」
男「四人がかりで君を殴って、姦して、嬲って、金を奪うのは酷い事じゃないのかな?」
犬「…はい、酷いことだと思います。それでも……私は貴方を許すことは、出来ません」
アイスが溶けて、棒から離れ地面に落ちた。
べちゃり、と湿った音が響く。
男「あっそ。んで?」
犬「私は二度と貴方に会いません。貴方も二度と私の目の前に現れないで下さい」
犬君は涙目のままぺこりと頭を下げると、踵を返して街中へと消えていった。
彼女は二度と振り返ることなく、俺もまた背中を追うことはしなかった。
男「…残念賞」
俺はコンビニ袋から、ぬるくなってしまった緑茶を取り出し、飲んだ。
少し歩くといつもの景色に辿り着く。
例の裏道で、肌を焼く太陽を見上げ、ふと思い出す。
男「…そうだ、扇風機買わなきゃ」
振り返ると、雑踏の景色が映る。
落としたアイスに、蟻がたかっていた。