日本語についてちょっと悩んだりする今日この頃。
ごにょごにょごにょ。
例えば、時制の一致。
英語の翻訳的な日本語が世に蔓延りだして久しいが、
英語で言う所の「時制」と、日本語のそれとは、やはり、どうやら違うようである。
ラジオドラマのナレーションは語り手であるから、語る内容の時間軸だけでなく、語り手が語る時間軸もころころ変わる。
つまりこの、
「変わる」
という言葉を例に出して言えば
「変わる」その瞬間を語り手が捉え、その場でその様を語るのか、
あるいは、その瞬間を見届けた上で、一息置いて、その様を語るのか……
前者であれば「変わる」であるし、後者であれば「変わった」である。
その変わる様が、時間をかけたものであれば、変わり始めた時点で語る場合「変わっていく」
既に終わりかけた頃合いで語るのであれば「変わっていった」となる。
語り手がその場に存在するかのように描くのであれば、
このように、時制と呼ばれるものは、むしろ作中で変化して然るべきではないだろうか。
こんな記事もありましたので、引用。
「ことばの広場(時制)」
この記事では「日本語に時制はない」としているが、それについては諸説あるので「時制っぽいものがある」と仮定してみたとして、
なるほど。かの芥川龍之介ですら、時制は同作中で様々に変化しているのだ。これは心強い。
「声に出して読みたい日本語」にも掲載されている、有名な「蜘蛛の糸」でも同じような事が起きている。
私なりの解釈をすれば、お釈迦様の行動はゆったりとその所作を見届けた上で「ご覧になりました」などと書かれ
カンダタ側の有様は、臨場感をもって、時にはカンダタの目線になって「居ります・ございます」などと書かれているように思う。
で、
結局、いつもこの結論に至のだけれど、なんとなく書いてしまうのではなく、確信を持って書くのであれば、それでいいのだな。きっと。
さ、書こう書こう。