近々このサイトで公開予定の音声劇、その音源が途中まで編集されたものを聴かせてもらって気づいた。いや、改めて思い知らされた、と言うべきか。音声劇では、編集技術によって、役者が録音した音声を切ったり貼ったりして、自分の感覚で余分な音や間を除去できる。逆にSEやBGMを加えて重ねることもできる。役者はそれと真っ向から向き合い、立場的に許される限り利用するところは利用し、反発するところは反発し、自分の立場に集中し、または枠を出て、最終的な作品のクオリティを高めるべきだ。
収録の際、基本的には稽古した通りの会話の間で演技した方がやりやすい。だが、限られた時間と体力では、台詞を噛んだり感情を上手く乗せられなかったりして録り直す際、毎回同じ一連の会話を複数の役者で演技し直すのではなく、そこで失敗した役者だけの「抜き録り」を強いられることがままある。すると、それらブツ切りの音声パーツを後に編集でくっつけることとなり、会話の中の「間」は、演出家でも役者でもなく、編集者のセンスに委ねられることとなる。いくら稽古で演出家が事細やかな演出をつけ、役者がそれを意識して演技しても、最終的な音声に緻密に反映されないことがある。
これをどう思うかは人それぞれで、編集可能な媒体を嫌って生の芝居上演を好む人もきっと多くいるだろう。一方、担当者間の意思疎通を深めたり、自らが編集まで担当したりすることで、なるべく作品に自分の感覚を反映させようとする演出家はいる。うまくすれば、製作期間の短さや役者の未熟な点を補い、ぶっつけ本番の生上演では到達出来ないクオリティのものを作れることもあるだろう。
役者はどうだろうか。自分で編集機を手に取らない演出家と同じく、自らの意識したものがそのまま完成形とならないもどかしさはあるだろう。ただ、それを補って余りある恩恵を受けられる可能性もある。
耳で聴くだけの音声劇。音が勝負。音でしか伝えられない。映像や生演技を視聴する時よりも、役者の発する一音一音に聴視者は集中する。表現媒体が視覚にも及ぶとき、イントネーションやアーティキュレーションは時として軽視されるが、聴覚のみとなったときはそうは言っていられない。演技はすべて声のみを通して行われ、客の目や肌ではなく耳に入る。役者は演技だけでなく、声の要素一つ一つにも気を使い、学び、こだわるべきだろう。
制作者それぞれがこだわる部分、他の影響を受けず孤独に能力を高めなければならない部分、どちらも多くある。だが、それをデジタル化するということは、保存と編集を甘んじて受け入れることであり、ならば開き直って最大限に活用し、より高いクオリティを目指すのが、真摯なデジタルコンテンツ制作の姿勢であると思う。
余談だが、今回の収録では、マイクを二本・ノートパソコンを二台用意し、ほぼ順録りで進行した。声を合わせて同時に録音したのはガヤの数カ所のみで、二台の録音機で音質が異なるので、後に編集で揃えることを前提とし、役者が台詞を同時に喋ることは基本的に避けた。現在の当サークルでは演出家や役者がそれぞれこだわりたい部分を、納得できるまで、自己申告で録り直せる。
作家が紡ぎ、演出家が色付け、役者が形作った音声。それを違和感なく繋げるかどうかは編集者の能力に大きく依る。しかしやはり最終的な仕上がりは、チームメンバーそれぞれの「どういったクオリティのものにしたいか」という気持ち、ひいては「そのためにどう行動するか」次第で大きく変えられると思う。